こあらとFTM

「ヒゲとナプキン」と不自由と自由

おひさしぶりになってしまいました、こんばんは、こあらです。

こあらんどに入園していなかったあいだに、 プライベートはいろいろと動いておりました。

なんとびっくり、まさかのベトナムで転職します!

もうね、本当人とのつながりとか縁ってすごいなと改めて思う展開になったわけですが、 そんなこんなでホーチミンでの生活も残すところ1週間を切りまして。

引っ越しといっても、スーツケース1つとバックパック1つしかないので、 荷作りは楽そうだな、なんて思ってもちろん何にもしてないんですけども。

離れる前に、あのコーヒーおばさんのとこ行きたいなとか、あのおばさんのバインミー食べたいなとか、あそこのバインセオ食べたいなとか(あれ?ただの食いしん坊?)日々何を食べようか、とても悩みながらの今日この頃です。

ローカルフード食べたいのもそうだけど、おばちゃんおじちゃんたちがとってもやさしくて、会いに行きたくなっちゃうんだよなぁ。

それでは、久々のこあらんど、はじまるよー。

「ヒゲとナプキン」

ひさしぶりのこあらんど、今日は、ぼくの小さなおともだちから教わったことについて書きたいなと。

出来事自体は少し前のことなんだけど、最近、乙武さんが連載を始めた「ヒゲとナプキン」という小説を読んでいて、色々と思い返したり、考えることがあったのでね。

無料公開されているので「ヒゲとナプキン」読んだことないひとは、ぜひ読んでみてくださいな。

すごく読みやすい文章で書かれていて情景がありありと浮かんでくるのに、もしかすると多くの人には非日常なシーンの連続だったりもする、そんな近くて遠い、でも本当は遠いようで近い世界のお話です。

ちなみにぼくにとっては、とても身近であり、自分と重なる部分もあったりして。

まだ連載は始まったばかりですが、どんな展開を迎え、どんな結末に至るのか、今からとても楽しみです。

子どものころに読んだ「五体不満足」から始まり、書籍やインタビュー記事、日々のTwitterを目にしてきて、乙武さんの言葉の運び方はとても読みやすくて好きだなぁと思っていたのですが、「ヒゲとナプキン」を読んで、改めて乙武さんの文才は凄まじいものがあるなと。

そしてそれと同時に、どれだけの情熱と誠意を持って、物語の主人公に投影している友人達の話に耳をそばだててきたのだろう、寄り添ってきたのだろう、そしてどんな思いで、今小説というカタチで言葉を紡いでいるのだろうと思うと、なんていうか、胸が熱くなりました。

もうね、オトさん、飲みに行きましょう!(注:もちろん面識はありません。)

「女の子なのに」の呪縛

すっかり乙武さんの話になってしまいましたが、ここらで閑話休題。

今日のテーマに戻りましょう。

母親の着せ替え人形だった小さい頃のぼくは、どこからどう見てもただの「女の子」でした。

そんなぼくが成長し、自我が芽生えるにつれ、周りの大人たち、たとえば母親や先生、友人から、

「女の子なのに」どうしてかわいらしくしないの?
「女の子なのに」どうして〇〇ができないの?
「女の子なのに」どうして〇〇なの?

などという疑問や非難を幾度となくぶつけられるようになりました。

「女の子であること」が前提にあって、その人の思う「女の子」という枠組みから、 どうにもはみ出して見えるぼくに、疑問や苛立ちや嫌悪などがあったんだと思います。

ぼく自身は、自分が「女の子であること」をもちろん知っていましたし、理解もしていました。

だけれど、「女の子である」という感覚は持ち合わせていませんでした。

かと言って、どうやら「男の子である」とは言えない存在なのだということも理解していました。

「女の子」として育てられ、教育を受けたぼくは次第に「女の子」を演じることに慣れていきました。

その役を全うすることでしか、生きていく道がないのだと思っていたからです。

そうして懸命に演じれば演じるほど、“ぼく”と「女の子」は乖離していきました。

「女の子なのに」どうしてぼくは“ぼく”なんだろう。
「女の子なのに」どうしてぼくは“役”の中でしか、女の子ではないのだろう。

「女の子なのに」どうして。

この問いかけを重ねた分だけ、ぼくは不自由になりました。

見付けた居場所は、新しい“不自由”

トランスジェンダーやFTMという言葉を知って、似たような境遇の人たちとたくさん会って話をして、自分が何者なのかやっと説明ができるようになってからも、不自由さはぼくの後を追いかけてきました。

「FTMなのに」どうして女子会に呼ばれて参加してるの?
「FTMなのに」どうして男っぽくないの?
「FTMなのに」どうして治療しないの?

「FTMなのに」どうして。


「女の子」を演じることから解放されたぼくを待っていたのは、新しい不自由でした。

不自由からの脱却

“ぼく”自身は何も変わっていないのに、「女」だと言えば女らしくないと言われ、「FTM」だと言えばFTMらしくないと言われ、「男」だと言えば男らしくないと言われる。

“ぼく”と言うピースをどこにはめ込んでみても、不自由であることには変わりありませんでした。

そしてぼくは思いました。

『カテゴライズするのをやめればいいんだ。』

それが自分を説明する言葉をずっと探していたぼくが辿り着いた結論でした。

もちろん相手への「わかりやすさ」のために、トランスジェンダーです、とかFTMです、と表現することは今もあります。

ぼくがこのブログで、こあらとFTMというカテゴリを作ったり、記事の中でトランスジェンダーとかFTMという言葉を使うのは、例えるならば旅行会社の人が持ってる旗みたいなもの。

目印としての言葉であって、FTMという囲いの中に自分を放り込むものではないんです。

小さなおともだちから教わったこと

まだぼくが神奈川に住んでいたころ、久しぶりに北海道へ帰り、友達とその息子くんとごはんを食べにいったことがありました。

お店に向かう途中、友達がヘパ〇ーゼを買うというのでコンビニに寄ったときのことです。

ぼくらのごはんに付き合ってくれる息子くんに、1個だけお菓子を買う約束をして、ぼくらは明るい店内へと足を踏み入れました。

入店のチャイムがまだ鳴り終わらないうちに、お目当てのおまけ付きのお菓子の前にたどり着いた息子くん。

息子くんのママはというと、繁華街という場所柄もあってか何種類ものドリンク剤がずらりと並ぶ棚の前で、しばし悩んでいる様子。

「ママも悩んでるねー。息子くんはどうする?決まった?」とぼくの左手を握る小さな手の主に聞きながらしゃがみこむと、彼は目の前の棚から目をそらさないままポツリと言いました。

『こあらちゃんの中に、おとなのおんなのこはいるの?』
「おとなのおんなのこ?うーん、どうかなぁ?いるとおもう?」
『ううん、〇〇はいないとおもう!』
「そっかぁ。そうだねぇ。こあらちゃんもそう思う。」
『うん!あ、〇〇これにするー!』

そういってお菓子を手に取った息子くんが、ぼくの左手を引いて陳列棚を抜けていくその小さな後姿を眺めながら、なんだかぼくはとっても柔らかい気持ちになりました。

きっと彼は、自分のママや周りの女の子のおともだちと、なんだか違う「こあらちゃん」に、ハテナが浮かんだのでしょう。

「女の子」という枠組みが出発点ではなく、あくまで「こあらちゃん」はどうあるのか、と疑問を抱いてくれた彼に、ぼくもそうやって目を向けるひとでいよう、と改めて思わせてもらいました。

小さなおともだちが感じさせてくれた自由

これはまた別の小さなおともだちのお話です。

友達のところへ泊めてもらっていたある朝、ぼくは寝ていた布団のそばに座り込んだ子どもたちの気配で目を覚ましました。

そしていっしょに、しまじろう体操を3回したりして戯れたあと、「ほら、息子くん、着替えてくださーい。」なんてストーブの前で丸まってる息子くんに声をかけると、『えー、寒いー。』と言いながらも、しぶしぶ着替え始めた息子くん。

スウェットをかぶり、スポンッと頭を出した息子くんは、腕を袖に通しながら、まじまじとぼくの顔を見て言いました。

『こあらちゃんは、どうして女の子なの?』
「えー?どうしてだろうねぇ?」
『〇〇は、こあらちゃん女の子じゃないと思う!』
「女の子じゃないと思う?」
『うん。』
「そっかぁ。そうだね、こあらちゃんもそう思う。」
『はい!着替えた!』
「お!おりこうさん!」

彼は「女の子」という枠組みに入れられたぼくが、その枠組みからはみ出しているところを非難するでもなく、「こあらちゃん」を見て、知って、接したうえで、「こあらちゃん」を囲う枠組みの方に疑問を感じてくれました。

そこには不自由さではなく、自由がありました。

おわりに

「女の子なのに」「男なのに」「LGBTなのに」「社会人なのに」「主婦なのに」「ニートなのに」「療養中なのに」「日本人なのに」「障害者なのに」

例をあげるとキリがないけれど、大人になったぼくらは、ともすればそんな肩書きにつられて偏った目で、相手を、物事を見てしまうことはないでしょうか。

散々その不自由さを知らされてきたぼくも、不意にそんな目線を持ってしまう時があります。

ハッとするたび、ものすごい罪悪感にかられながら反省を繰り返すぼく。

日々心がけていても、ぼくの心のどこかには今もまだ歪んだ視線があることは否定できません。

そんなぼくは、小さなおともだちに会うたびたくさんのことを教わります。

ぼくは親ではないし、小さなおともだちをほんの一瞬でも、例えば“育てる”なんて大それたことはできません。

小さな手のひらから、背中から、瞳から、学ばせてもらうことばかりです。

もちろんこどもにもおとなにも、いろんなひとがいて、いろんな価値観があるので、 必ずしもこどもの目線が正しいとか、大人の目線が歪んでるとか言うつもりはないし、思ってもいません。

でも、ひとつの気づきとして、ぼくの身の回りという小さな世界で起こったお話として、ぼくと小さなおともだちとの出来事から、なにかを感じてくれたら嬉しいです。

目の前の人や出来事を、まっすぐに見つめることは、きっとたやすいことではないけれど、肩書きや先入観に惑わされず、“そのまま”を見つめようと思うことがスタート。

曇りも歪みもない目で世界を見られる人でありたいと、ぼくは思います。

それじゃ、またね。

関連記事

  1. こあらとFTM

    髪を短く切りたいぼくと、切らせたくない母の長きにわたる攻防戦【前編】

    こんにちは、コアラ顔の会社員兼フリーライター、こあらです。&n…

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

最近の記事

  1. こあらとFTM

    髪を短く切りたいぼくと、切らせたくない母の長きにわたる攻防戦【前編】
  2. こあらとベトナム

    ベトナム在住2年目の管理人こあらが思う、ホーチミンとハノイの違い-気候編-
  3. こあらのいろいろ

    ぼくが楽しく生きるための7つの決め事とは?
  4. こあらと旅

    ぼくの旅の行き先やホテルは、どうやって決まる?
  5. こあらの日本旅

    ベトナム在住のぼくが、一時帰国で食べたいもの
PAGE TOP