KOALANDへようこそ!管理人のこあらです。
KOALANDは、「いつまでも青春を生き続けたい、こあらのネバーランド」、
という意味を込めてつけた造語です。
目に見えるもの、見えないもの、まだ知らないものへの、
興味と好奇心に溢れたこどものような心で、今日も生きていたいです。
それでは、コアラ顔の会社員兼フリーライター、
こあらについてのあれこれを、ここで紹介したいと思います。
目次
こあらって何者?
交通事故で内臓破裂、いじめ、性別への違和感、大学受験失敗、専門学校中退。
(性別問題、LGBTトピックに関しては、別カテゴリ【こあらとFTM】に掲載)
人生にも、性別にも迷い倒したネガティブ期(やや長め)を経て、
好きな人やもの、心が動くこと、ワクワクすることに素直でいようと決意。
22歳で中国に半年留学。
それまで勉強した英語を全部忘れ、中国語と少しの韓国語、
10kg超の脂肪を身に着けて帰国。
北海道から所持金2000円で上京。
→準備中【羽田到着時の所持金は700円。無謀が奇跡を呼ぶこあらの上京物語。】
素敵な出会いに恵まれ、終わらないポジティブ期へ突入。
音楽ユニットで歌ってみたり、パニック障害でニートになったり、
遅れてきた変声期を迎えたりしながら神奈川で暮らしたのち、現在は、ベトナムにて生存中。
ガーゼと花火と洗脳の幼少期
海、山、川、森、全部揃った北海道の田舎町にて生まれる。
2歳のときに交通事故で、内臓破裂するも最初の病院では気づかれずに帰宅。
しかし泣き止まないので、脳外科のある別の病院へ連れていかれ、そこで回腸の破裂が発覚。
九死に一生を得るも、その事故のためか、箱入りどころか重箱入りで育てられる。
おでこに事故の傷跡があり、「太陽にあたると良くないから」と、
幼少期は常におでこにガーゼを貼られて過ごす。
そのため、小さいころの写真はおめかしをしようが何をしようが全部ガーゼ付き。
数年後、大学病院にて傷跡を消すレーザー手術を受ける。
爆音とともに花火のような丸い光が何度も見えて、手術は無事終了。
電車で2時間かけて何度も通った大学病院の庭で、
「あなたは将来ここの大学に入るのよ」と母親より洗脳のように言い聞かされて育つ。
訳も分からず頷きながら、毎回鳩とプリッツを半分こ。
しかし、プリッツを折ってあげるのではなく、
地べたに叩きつけて割る、というパワープレイを披露。
身長と髪の長さが反比例した小学校時代
小学校にあがったばかりの土曜日、給食がないので空腹のあまり泣きながら帰宅し、
一緒に下校していた幼馴染を困惑させ、近所の人を心配させる。
ちなみにその日の昼ごはんは、うどん。
入学当初は、母親の好みの女の子らしい服、長い髪、みつあみに結んだリボン、
極度の人見知りで、のんびりやさん。
運動会の徒競走は最下位、マラソン大会は30人くらいの中で24位の鈍足ぶり。
読書が好きで、当時の愛読書は、兄のお下がりの推理クイズシリーズ。
小学校にあがって少し経った頃から、
レースやリボンなどが大好きな母親と、服や髪型について意見が合わなくなる。
初めて一人で行った床屋さんで、
長かった髪をバッサリと切って帰宅し、母親とケンカに。
以後、長きにわたって髪の毛を巡る仁義なき戦いが起こる。
スイミングスクールに通い始めるが、
だんだん面倒になり、幼馴染とサボるために頭を使い始める。
4歳から習わされていたピアノは、先生が怖すぎたためサボるわけにもいかず、渋々通う。
しかし、好きではないため練習はしない。そのくせ、8回出た発表会は、毎回奇跡のノーミス。
4年生でバスケ部に入部するが、なんてことのないパス練習で突き指をし、
自分の運動神経のなさを痛感する。
翌年バスケ部が無くなったため、
憧れのサッカー少年団に一瞬所属するも、女の子は・・・と言われスゴスゴと退散。
しかし諦めきれず、中休み、昼休み、放課後とサッカー三昧に。
「○○くんが好きだからサッカーしてるんでしょ!」という謎理論により、
女子から仲間はずれを食らう。
落ち込みつつ、元気の出る歌を探すも、
しっくりくる音楽に巡り合えず、ならば作ってしまおう!と、
母親のお下がりのギターを手に、見よう見まねで歌を作り始める。
6年生の時、創設されたバレーボール少年団に入団。以後バレーにハマる。
最後の運動会の徒競走で1位を獲得し、みんなに驚かれる。むしろ自分が誰より驚く。
仲良しの男友達のお母さんまで、
「○○が、やるなアイツ!って言ってたわよ!」と報告に来る。
寝ても覚めてもバレーに明け暮れた中学校時代
とにかく部活ばっかりして過ごす。
合宿で、ひたすら校歌を歌わされ・・・いや叫ばされたり、
体育館のどこにいても2秒で集合という無理難題を言われたり、
1秒で「立て!」「座れ!」を繰り返し、
尾てい骨が削れるかと心配になりつつも、懸命に過ごす。
3年間部活は一度も休まなかったけれど、決してうまくはならず・・・。
皆勤賞。だけど残念賞。
その代わり、長距離走だけは、エースにも引けを取らないくらい走れるようになる。
高校受験を前に将来を考え始めた時、
相談を持ち掛けても見過ごされるいじめや、不公平な扱いに、
教師に対して不信感を抱き、それならばいつか自分が変えてやる!と教師を目指し始める。
そのころ在席していたクラスは、3年B組(どうでもいい)。
中学最後の冬休み、2歳のときの交通事故の後遺症を改善するため手術入院。
右腕を点滴で固定されたため、左手でも箸を使えるようになる。
それ以降、左利きの人と隣り合わせで食事するときは、
ぶつからないよう自分も左利きのフリをする、という謎スキルを習得。
部活と海と生徒会の高校時代
またしてもバレー部に入部。
2つ上にかわいがってくれた先輩がいたからか、1つ上の先輩に目をつけられる。
特に関わりはなかった、というかその人と話した記憶すらほぼ無いのだが、
その先輩づたいに上級生に自分の陰口が広がり、
上級生が、知り合いの後輩にそれを伝え、みたいな伝言ゲームが完成。
おかげで、PHS(年代がバレる)に非通知で毎日嫌がらせメールがくる。
廊下を歩けばヒソヒソされる。
大好きだったバレーは2年にあがってすぐキャプテンとケンカして退部。
部活をやめた次の日、地元で有名だった我が校唯一(我が地元唯一?)の、
テレビから出てきたようなギャルに誘われ、生徒会に入る。
そこから、どうにも冴えないこあらと、日サロが大好きなギャルとの凸凹コンビが誕生。
→準備中【ガングロギャルとセーラー服を着た少年こあらの高校生活。】
陰口が広まってくれたおかげで?、先入観や噂に左右されない人たちが仲良くしてくれ、
高校生活はなんだかんだ楽しく過ごす。
国語教師になりたいと文系クラスに進むも、
土壇場になって親に反対され、科目が足りないまま医療系の大学を受験し見事不合格。
今も心のふるさと、青春と葛藤の札幌時代
高校卒業後、実家を離れ、札幌の予備校へ通い、
医歯薬コースで、足りなかった理系科目を必死に穴埋めし始める。
お昼ご飯のなか卯のうどんが、当時の心のオアシス。
家と予備校だけの往復からか、ストレスで食に走り、
気が付くと、お財布の中が170円に。
小麦粉を買ってきて水で溶いて焼いて食べながら、さすがにまずいと思い、
飲食店でバイトして賄いを食べよう!と、居酒屋の面接へ。
次の日から、張り切って賄いを食べ・・・じゃない、張り切って働く。
働き出して数日で、ブラック企業すぎることに気づく。
気づくものの、賄いは食べたいので、頑張ってみることにする。
結局トータルすると約4年も在籍。
未だにこのとき以上に過酷な職場に出会ったことがないし、
このとき以上に仲間と泣いて笑った職場もない。
一生涯の仲間と出会えた最高の時間を過ごす。
→準備中【所持金170円が導いてくれた青春と戦いの日々。】
その後、特待生試験を勝手に受け、学費免除で専門学校へ進学。
アスレティックトレーナーを目指して学び始めるも、
1つ年下の子たちばかりだったのもあるのか、
キャピキャピ感溢れるクラスメイトの中で居心地の悪さを感じはじめる。
夏休みは、アメフトXリーグの夏合宿に帯同。専門学校時代の1番の思い出。
スイムの授業を通して、押し殺してきた「女体」であることの違和感、
嫌悪感が抑えきれなくなり、登校拒否に陥る。
結果、特待生なのに中途退学。
実家リバイバルから北京留学、上京、そしてベトナムへ
実家に戻り、近所のコンビニでバイトしながら、留学費用を貯め始める。
その後「留学のチャンスが来たら仕事辞めて行きます!」
と面接で宣言した就職試験で、なぜか採用され、正社員になる。
英語圏に行くはずが、地元の市から中国への派遣留学制度があることを知り、
小論文と市長との面接を経て、学費、渡航費、寮費を市に負担してもらっての留学が決定。
わずか4ヶ月で退職、ニーハオしかわからないまま中国へ。
→【落ちこぼれからの下克上!成績も体重も右肩上がりの留学生活!】
半年後、中国語と少しの韓国語、10Kg超の脂肪を身につけて帰国。
帰国してすぐ「就職する前に、遊びにおいでよ」という幼馴染の誘いに乗り、
北海道から、所持金2000円で上京。
→【羽田到着時の所持金は700円。無謀が奇跡を呼ぶこあらの上京物語。】
そのまま約10年、神奈川に居座り、
幼なじみと犬とで暮らしたり、友達とデュオで歌を歌ったり、
青年世代の生の声として県議会の方に意見書を出したり、
トランスジェンダー支援団体を立ち上げてみたりする。
(性別問題、LGBTトピックに関しては、別カテゴリ【こあらとFTM】に掲載予定)
ある日、電車で突然変な汗をかき始め、乗換駅にて倒れる。
床にぶつかった痛みで意識を取り戻し立ち上がるも、数分後再度倒れる。
その後、駅と電車でパニック発作を繰り返し、
なかなかドアの開かない急行電車が怖くて乗れなくなる。
数か月ニートになり、療養生活を送ったあと、社会復帰。
そして3年後、ワクワクを求めて単身ベトナムへ。
→【ベトナム行きを後押しした決定打は、まさかのできごとだった!】
こあらは今日も、会社へ行ったり、原稿を書いたり、ビールを飲んだりしながら、
ベトナムでの暮らしを、ゆったりまったり満喫中。